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それぞれの3.11

あれから4回目の3.11がやって来ました。
原発事故を伴った、地球史にも残る大災害だけに、政府も国民も
この不幸な経験を活かすしかない。そうしなければ、無念にも
この災害で犠牲になられた方々がやすらかに眠れるわけがない。

元へ戻す復興を超えて、創興の発想が必要だ。

しかし、復興への道のりすら遠いのが現状だ。

四年前のそのとき、自分はどうしていたのか?
その少し後に書き留めた私小説が記憶を甦らせてくれる。

登場人物は変えてあるが、状況は事実に沿っている。

以下は「生きる」の第四章です。

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 その次の週、恵介は健喜食品のある関西の中心都市大阪の北浜へ出かけた。大竹社長のオリエンテーションを聴く為だ。大竹の説明は恵介が思っていたこととほぼ近い内容だった。

 第二回目のミーティングが行われたのはその月の十一日の午後だった。丁度今後の段取りの見直しをしているときだった。恵介はどうも目の前が横にゆっくり揺れている様な気がした。歳のせいで目眩がしているのかと思ってしばらく黙っていた。しかしその揺れは執拗に続いている。

 そのとき、若い社員の一人が、

「どうも、地震のようですね。万一のこともありますから、念のためドアを開けたまま外へ出ましょう。」と言ったので、やはり現実に揺れていたのだと納得した。

 オフィスのあるビルの五階から階段で下まで降りた。廻りのビルから大勢の人が外へ出て来ていた。こんな長い揺れは初めての経験だった。

 携帯でネットのニュースを見ると、震源地は東北の宮城県と出ていた。東北の地震の揺れが関西で感じるなんて常識ではありえないことだった。

 これは相当大きな地震だな、と思いながらも恵介と山本は健喜食品のビルを出ると、まだ陽が明るかったが、居酒屋を探しその暖簾をくぐった。生ビールを煽りながら、そのときは未だこの地震が十六年前に起こった兵庫県南部地震を上回る未曾有の大震災とは恵介も山本も思っても見なかった。

 その夜、山本と別れ、恵介の住む最寄りの駅のロータリーまで車で迎えに来た妻の道代に聴いても、そういえば揺れた様な気がするという程度だった。

 帰宅した後、居間でテレビモニターから流れる想像を絶する悲惨な現地の光景を見て、恵介も道代も唖然としたまま一言も発することが出来なかった。報じられる前代未聞の震度とマグネチュードの数値の大きさや押し寄せる津波のむごい画像に対し、死者、行方不明者、負傷者のカウントの緩慢さは大きなギャップを感じさせた。兵庫県南部地震のときもそうだったが、諸官庁もマスコミも情報が殆ど正確に掴めないのだ。分断され孤立化した現地の情報は点でしか把握出来ず、それだけにこの被害の大きさに思い至った恵介は、

 「これは大変だ。へたすると死者・不明者は一万や二万では済まず、五万以上になるのでは・・・・・?」

という可能性すら頭によぎり、なかなかそれを吹っ切ることが出来なかった。

 そして同時に、福島の原発の事故や首都東京の帰宅難民の情報も流れた。

 恵介は東京の商社に勤める息子の伸吾に電話したが無論通じない。伸吾とその嫁の咲恵の携帯とパソコンにメールを送信しておいた。また、青森県の八戸市に住む若き知人からは何とか難を免れ無事にしていますというメールが返って来た。

  そのうち咲恵からみんな無事で元気ですが、伸吾が帰れないで今夜は会社に泊まるそうです、というメールの返信が届き恵介は道代と胸を撫で下ろした。

 恵介はその後、ネットバンキング経由で些少の震災募金をしたり、メンバーになっている異業種の集まりで、水を被災地に送る為の募金や、救助犬の団体への献金を募ったりしていたが、恵介が住む関西は震災の影響が多少はあるとはいえ、被災に苦しむ人々とは遠くかけ離れた別天地であった。
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プロフィール

奥田 白鷺 Hakuro Okuda

Author:奥田 白鷺 Hakuro Okuda
あまり肩肘張らず、物事にこだわらず、来る者は拒まず、去る者は追わず、知りたいことを知り、言いたいことを言い、キッチュな構えで、森羅万象、自然の流れに身を委ねながら天命を待つ、大宇宙の塵のような「星のおじいさま」です。

1946年京都市生まれ。

※白鷺は塵土の穢れを禁ぜず

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